国境や地域範囲があいまいな国や場所はどんなところ?

アメリカのサンフランシスコが、ゴールドラッシュで盛り上がったのは1800年代の中頃。金鉱を見つけて成り金になった人たちのことを、その年代にちなんで「49ers(フォーティー・ナイナーズ)」と呼ぶが、その中に1人の日本人がいたことをご存じだろうか。その名は、ジョン万次郎である。土佐の沖合で漁をしているときに漂流、アメリカ船に助けられ、そのままアメリカまで連れて来られた人物である。彼が日本に帰国するときの船は、このゴールドラッシュで手に入れた金で購入している。

さて、このゴールドラッシュで人口が急増したサンフランシスコは開発も急ピッチで進み、カリフォルニア州が州に昇格するのも早かった。アメリカの西部開拓というと東海岸から順に西へ進んだと思われがちだが、じつはサンフランシスコやロサンゼルスなどの西海岸はロッキー山脈を挟んだ地域を飛び越して先に発展したのだ。

したがって「西部劇」というときの「西部」はアメリカ中部と西海岸の間の地域を指すことが多い。現在の州でいえばアイダホ、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、モンタナ、ワイオミング、コロラドなどである。たとえば西部劇には馬車が乾いた大地を土ボコリをあげながら走るシーンがよく登場するが、あの光景はアリゾナやニューメキシコならではのもの。今でも馬車が車に変わっただけで一歩都市圏を離れれば西部の風景はそう変わらない。

オランダとベルギー、2つのバルレ街が生まれたわけは?

世界でもっとも巨大な飛び地はアメリカのアラスカ州。1867年にロシアから購入したため、カナダを挟んだ飛び地となっている。これに対して、もっともユニークな飛び地とされるのがオランダの最南部、バルレ・ナッソーという街にあるベルギーの飛び地である。というのもバルレ・ナッソーの街の中にはベルギーの飛び地が実に21ヵ所も点在しているのだ。しかも、その飛び地の中に、またオランダ領の飛び地が8ヵ所もあるのである。こんな妙な街ができたそもそもの理由は、かつてオランダとベルギーがともにスペイン領だった時代にさかのぼる。1198年ブラバント公爵という領主が後にナッソー伯爵となる別の領主に自分の領地のバルレ村を譲ったことに由来する。

そのとき公爵は村の土地のすべてを譲らず土地を細切れに残しておいた。そこで1つの村がバルレ・ナッソー(ナッソーのバルレ)とバルレ・ヘルトホ(公爵のバルレ)の2つに分かれることになった。そして後にこの国がオランダとベルギーに分かれるとき、オランダ領のバルレ・ナッソーとベルギー領のバルレ・ヘルトホに分かれたのである。

バルレ街の中には国境表示はなく家の番号標識があるだけである。通貨はオランダのギルダーとベルギーのフランの両方が使えるが、役場や警察、学校などの公的機関は、すべて両国のものが存在している。ベルギーにはもう1ヵ所、おもしろい場所がある。詳細な地図で、ドイツとベルギーの国境線を見ていくと不思議なことに気づく。国境を示すラインが2本に分かれているところが4ヵ所ほどあるのだ。そして、その2本の国境の間にはベルギー側の鉄道が走っている。つまり線路の敷地部分がベルギー領で、その両側がドイツ領ということである。

地図で見ると線路分だけ細長くベルギー領がドイツ領に食い込んでいるように見える。いったいどういうことなのだろうか?じつは、この鉄道は貨物専用のベルギー国有鉄道。長い歴史の中で、国境線を何度も変更するうちにベルギーの鉄道だけがドイツ領内に取り残され、その線路用の土地だけがベルギー領のままということになったわけだ。この地域のドイツ住民たちは線路の踏み切りを渡るたびに「ベルギー領」を横断していることになる。

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— posted by 斗間下 at 03:42 pm  

京都の歴史研究所 日本の歴史ある京都についてまとめています

ごきげんよう。わしが、この京都の歴史研究所の所長じゃ。京都というのはとても歴史ある場所で、どの時代でも中心にあった地域になるのじゃ。平安から、戦国時代、幕末と京都を中心として歴史が動いていたんじゃ。この記事はそんな京都の魅力についてを紹介していくこととなっておるのじゃ。

まず観光するならここを押さえておきたい!京都には神社やお寺の数が多く、観光名所として有名なところもたくさんあります。中でも人気の高い名所について紹介します。

清水寺

言わずと知れた清水寺は日本でも有数の観光スポットで、国内外を問わず毎日多くの観光客が訪れます。修学旅行で行ったという方も多いと思いますが京都に行くならぜひとも立ち寄りたい場所です。京都市の東山区にあり、1,000年以上の歴史を持つ非常に古い寺です。

清水寺の舞台が有名ですがこれは本当に舞台なのではなく、清水寺の本堂を指す言葉です。意外と知らない方も多いのではないでしょうか。この本堂はケヤキの柱で支えられており、寺から少しせり出すようになっているのでそこからの景色も抜で、特に晴れた日などは豊かな木々に囲まれた清水寺周辺を見渡すことが可能です。

銀閣寺

京都というと金閣寺のイメージが強いかもしれませんが銀閣寺も魅力のあるお寺です。金閣寺をモチーフに作られた銀閣寺は住宅スペースと仏道が一体となっており、特徴的な外見で知られています。なんといっても見所は庭園で、銀閣寺の庭園は将軍足利義政が直接指揮をして完成したそうです。

枯山水と錦鏡池で構成された庭園は日本のわび・さびを存分に表現した作りで、日本人なら一度は見ておきたい素晴らしい出来です。参拝料は大人で500円、小・中学生で300円とリーズナブルなので気軽に参拝できるのも嬉しい点です。自然との調和が見事になされた庭園は一見の価値ありです。

金閣寺

こちらもやはり京都観光の定番スポットです。当時の将軍だった足利義満が建てた寺で、金色に輝くその外見はどこか圧倒される迫力があります。周囲の自然との調和が非常に美しく、1度見ると絶対に忘れられない景色を楽しめます。

また、金閣寺のそばにある池に金閣寺が映ることを逆さ金閣と呼び、これを目当てに金閣寺を訪れる方も少なくありません。
歴史的建造物としても魅力のある金閣寺ですが、単純に美しい景色を見せてくれるのも人気の理由でしょう。

二条城

お城好きには二条城がおすすめです。二条城は徳川家康が将軍になる際に使われたお城で、その後も徳川幕府が終わるきっかけとなった大政奉還の舞台にもなりました。

日本が大きく動く時にこのお城が重要な役割を果たしたと言え、特に徳川幕府を象徴するお城と考えられます。徳川幕府というと江戸城がイメージされますが二条城も同じくらい強い関係を持ったお城です。

現在では作られた時代がそれぞれ違う3つの庭園が見られ、江戸時代から昭和時代にかけての歴史を感じられます。夜にはライトアップされまた違った顔を見せてくれるので昼と夜、2回に分けて訪れるのもいいでしょう。

伏見稲荷大社

日本全国にある稲荷神社の総本宮として京都にある伏見稲荷大社も見逃せないスポットです。本殿は稲荷山にあり、この稲荷山そのものが信仰の対象になっています。

伏見稲荷大社には千本鳥居と呼ばれる無数の鳥居があり、とても荘厳な雰囲気を醸し出しています。千本となっていますが実際の鳥居の数は1万本以上とされており、他の神社では絶対に見られないここならではの景色が楽しめます。

また、千本鳥居を抜けるとおもかる石と呼ばれる石灯籠があり、空輪という石灯籠の頭部分を持ち上げて自分が予想していたよりも軽ければ願い事が叶うという言い伝えがあります。願い事が叶うかどうか石灯籠に聞いてみるのもいいでしょう。

知恩院

浄土宗の総本山として作られたのが知恩院で、法然上人を祀った寺でもあります。御影堂や三門は国宝に指定されており、さらに勢至堂や集会堂などは重要文化財になっています。

寺全体が貴重な遺産であり、歴史的価値も高い場所ですから観光にはうってつけです。現在、御影堂は大修理のために拝観できないのが残念ですがそれでも行く価値があるお寺と言っていいでしょう。

— posted by 斗間下 at 03:58 pm  

アフリカの民族紛争を産んだ罪つくりな国境とは?

アフリカには、1つの国で、いくつもの言葉が話されていることがある。そのため、サッカーなどの代表チームでも、同じ国民でありながら、選手同士で言葉が通じないことがあるという。これは、一国にいくつもの民族が共存するため。そうなった理由は、アフリカの国境に直線が多いこととも関係している。

アフリカの大地は、19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパの国々によって分割された。フランス、イギリス、ベルギー、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガルなどが植民地支配に乗り出し、アフリカを勝手に分割したのだ。その境界線を決めるとき、一部については、古くからの王国や民族の勢力範囲が考慮された。そのケースでは、河川や山脈などが国境となっている。ところが、そうした線引きが面倒な部分は、列強が地図上に勝手に定規で線を引くことで妥協した。

そのために、直線的な国境が多くなったのである。とくに、サハラ砂漠やカラハリ砂漠周辺は、ろくに調査もされないまま、勝手に分割されたので、一直線の国境線となっている。むろん、列強の国々は、国境線を決めるとき、そこに住んでいる民族のことなどまるで無視した。その結果、同じ民族が2つの国に分かれたり、異民族なのに同じ国にまとめられたところが少なくないのである。現在まで続くアフリカでの民族紛争は、その多くがこの国境線の決め方が根本的な原因となっている。

アメリカの州境は、なぜあんなにまっすぐ?

マラソンの高橋尚子選手は、ふだんアメリカのコロラド州ホールダーでトレーニングをしている。ロッキー山脈のふもとで、海抜約2,000メートル。アップダウンの激しい高地を走ることで、心肺機能を高めているわけだ。そのコロラド州付近のアメリカ地図を見ていると、アメリカの中部、西部では、州の境界線が一直線になっていることに気づく。

日本人の感覚でいうと、ロッキー山脈や河川などを州境にすればよさそうなものだが、まるで定規で線を引いたように州が区切られているのだ。その理由は、西部開拓時代の土地政策にあるという。独立間もない頃のアメリカは、イギリスとの戦争に多額の戦費を費やし、大きな負債を抱えていた。その借金返済の手段として、当時の連邦政府が注目したのが、西部の広大な土地だった。

政府は、1785年、公有地法令を定めて、まず西部のすべての土地を6マイル(約10キロ)四方に区切った。さらに、それを1マイル四方の36区画に分割。そのうち5区画を公立学校や連邦政府用地として除き、残りの31区画を640ドルで売却したのである。2年後の1787年には、北西部令を制定して、連邦政府から知事らを派遣。住民の成人男子が5,000人になれば、準州として自治を認め、6万人になれば州に昇格できることにした。この2つの法律に基づいて土地を扱い、つぎつぎと州に昇格させたので、州境は一直線になったというわけである。

— posted by 斗間下 at 01:23 am  

 

トルコはアジア圏ですか?それともヨーロッパ圏なの?

サッカーW杯の「アジア予選」には、イラン、イラクはもちろん、カザフスタンやウズベキスタンも参加する。だが、イラン、イラクと国境を接するトルコは、「ヨーロッパ予選」に参加。2002年韓国・日本大会では、みごとに強豪ぞろいのヨーロッパ予選を突破して、本大会に進出した。では、トルコはヨーロッパの国なのかというと、地理的には、その国土の97パーセントはアジア側とされ、ヨーロッパ側は3パーセントしかない。

だが、トルコ最大の都市イスタンブールは、かつては東ローマ帝国の首都であり、今でもアジア諸国より、ヨーロッパとの結びつきが強い。まさに、トルコは、アジアのような、ヨーロッパのような、じつにあいまいな国なのである。人種的にみても、東西文化の接点に位置するトルコでは、長い歴史の中で混血を繰り返してきた。そのため、ヨーロッパ人に近い人もいれば、アジア系のトルコ人もたくさんいる。

また、母国語であるトルコ語や、国民のほとんどが信者というイスラム教をみると、今では西アジアとの結びつきの方が強いという見方もできる。しかし、その一方で、政治的にはイスラム諸国機構に属しながら、第二次世界大戦後にはNATOに加盟していた。したがって、トルコの政治的なスタンスとしては、西アジアのイスラム諸国とも、ヨーロッパとも、仲良くしていきたいということのようだ。ちなみに、トルコのサッカーが強くなったのは、ドイツに移民したトルコ人の子が、ドイツでサッカーをしながら成長。トルコ代表として戦うようになったからである。

北米・南米は大国なのに、なぜ中米は小さな国に分かれている?

アメリカ大陸の北と南は、つながっているか?海を隔てて分かれているか?と問えば、メキシコから南米大陸につづく地形を思い浮かべながら、「どうだっただろう?」と首をひねる人もいるだろう。事実は、ごく細くなりながらも、かろうじて陸地でつながっている。その狭い陸地を掘り抜いたパナマ運河で、太平洋と大西洋がつながっているのだ。メキシコの南のくびれたその狭い地形には、7つもの国が存在する。面積は、日本の約1.4倍しかないところに、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマという7ヵ国が分立しているのだ。そうなったのは、支配者階級が各々の利益を優先した歴史があるためである。

もともと、中米の各国は、スペインの植民地だったが、メキシコの独立に刺激されて、ベリーズとパナマを除く5州が、1823年、「中米諸州連合」として独立。その後、分裂や統合を繰り返しながら、1838年に5つの共和国となった。しかし、その支配者階級は、植民地時代に富を蓄えた大土地所有者や大商人、軍人指導者たち。独立してからも、支配者階級の利益を守ることが優先され、お互いの利害が対立。結局、5つの共和国に分かれてしまったのである。

また、人種的にも、グアテマラにはインディオと呼ばれる先住民が多く、エルサルバドルやホンジュラスでは、スペイン系白人と先住民の混血が多い。さらに、コスタリカにはスペイン系の白人が圧倒的に多いなど、国によって人種が微妙にちがうことも、分立する一因となった。ちなみに、パナマは、1903年にコロンビアから独立。また、イギリス領ホンジュラスと呼ばれたベリーズは1981年に独立した。

— posted by 斗間下 at 01:11 am  

 

どこまでもあいまいな「アラブ諸国」の謎とは?

イランとイラクは、隣り合った国である。国名もよく似ている。ところが、イランはペルシア人の国だが、イラクはアラブ人の国。民族的には、まったくちがう。日本人のイメージでは、イランもイラクも「アラブ諸国」に含まれそうだが、じっさいには、イラクは含まれても、イランは含まれない。

では、その「アラブ諸国」は、どこからどこまでの国を指すかといえば、じつはその定義ははっきりしないのだ。たとえば、シリアのアラブ人は、肌の色が白いのに、エジプト南部やスーダンなどのアラブ人は肌が黒い。外見で、アラブ人を区別することはできない。また、1945年には、「アラブ連盟」という組織が創設された。アラブ国家の相互協力を目的としており、現在、サウジアラビア、クェート、カタール、アラブ首長国連邦、イラク、ヨルダン、エジプト、スーダンなどに、パレスチナ解放機構(PLO)も参加している。

その加盟国の人々を「アラブ人」と呼ぶこともできるが、ここでもあいまいさが残る。というのも、本来、アラビア語はコーランの言葉であり、イスラム教と切り離せない。つまり、アラビア人は、アラビア語を母国語にして、イスラム教徒である人々のことをいう。しかし、時代の変化とともに、アラビア語とイスラム教が切り離されて、アラビア語は話すがイスラム教徒ではなかったり、イスラム教徒だがアラビア語を生活語として使わない人たちもあらわれている。結局「アラブ」とは、民族的な概念ではなく、歴史や地理、政治、文化などの条件を考え合わせて、総合的に決められる概念といえそうだ。

「中東」って、どこからどこまでのこと?

国際ニュースでは、「中東和平交渉」や「中東戦争」という言葉がよく登場する。そのため、「中東」と聞くと、イスラエルやヨルダンといった国を思い浮かべる人は多いだろう。そこで、その二ヵ国以外で、中東に含まれる国は?と聞かれて、明確に答えられるだろうか。じつは、国際社会でも、どこからどこまでが中東なのか、はっきりしていないのが実情だ。

そもそも、「中東(ミドル・イースト)」という言葉が初めて使われたのは、1902年、アメリカの海事戦略家アルフレッドーマハンが、ロンドン発行の雑誌「ナショナル・レピュー」に掲載した論文だったといわれている。この論文の中で、マハンは、ロシアとイギリスの戦略的覇権を検証し、両国間の争いの舞台となったスエズからインドまでの広大な一帯を「中東」と呼んだ。その理由については、それまでヨーロッパ人が呼んできたアジア東部の「極東(ファー・イースト)」と「近東(ニア・アジア)」の中間に位置するため、「中東(ミドルイースト)」としたとされている。

しかし、マハンが、明確な線引きをしなかったため、その後、「中東」という言葉は、あいまいなまま使われることとなってしまった。日本の外務省では、中東と近東を合わせて「中近東」と呼んでいる。そのエリアは、東はアフガニスタンから西はモロッコ、北はトルコから南はスーダンまでの22ヵ国である。しかし、これも、ヨーロッパでいわれる「近東」「中東」の範囲が明確でないとして、戦後、日本が独自に作った地理的な概念。この中近東という言葉は、日本だけでしか使われていない。

— posted by 斗間下 at 01:04 am